30代半ばのN子さんは生来健康であったが、数年前に奇妙な体験をしたことがある。微熱が約1ヵ月間続き、その後に突然、
水を大量に飲みたくなるとともに、尿が大量に出る症状が現れた。口の渇きが極度に強く、口の中に灼熱感を感じた。冷たい水を無性に何度も飲みたくなったという。
尿量は通常の人では1日1.5リットル程度であるが、N子さんの場合は10〜15リットルと驚くほど増加し、昼夜を問わず催すようになった。会議や睡眠が妨げられるだけでなく、
乗り物に乗っているときも、我慢できなくなるのではと恐怖感が起こったという。
N子さんのこの病気は尿崩症といわれるものである。これは腎臓での水の再吸収を促し、尿量を減少させて一定量に調節する役割をもつ抗利尿ホルモンの分泌障害ないしは
作用障害が原因である。
尿は腎臓でつくられるが、血液を腎臓の糸球体で濾過してできた原尿は1日150リットルにもなる。この原尿から体に必要な物質やミネラルを尿細管でもう一度体に取り込む。
これを再吸収という。水も98〜99パーセントは再吸収されるが、このときに働くのが問題の抗利尿ホルモンである。このホルモンが働かない場合、
1日10リットル以上の再吸収が損なわれて多尿となるのである。
この病気の原因はまだ十分にわかっていないものもあるが、抗利尿ホルモンをつくる脳にある視床下部、分泌部位の脳下垂体後葉での遺伝子レベルでの障害や炎症、
脳腫瘍など多くの原因が知られている。
いったん、この病気になると自然に治ることはないが、脳腫瘍など原因となっている疾患を治すか、抗利尿ホルモンに類似した化合物であるデスモプレシンを投与することで
多尿を改善させれば、日常生活にはとくに大きな支障はない。
最初は腎臓の病気だと思ったN子さんだが、治療により尿量が正常に戻り、通常の生活に復帰している。「トイレに行く回数が増えるとこんなに生活が不便になるなんて
考えてもみませんでした」と、N子さんはこの奇妙な体験を回想する。
|